料理歳時記
文:曽根雅典[三軒茶屋nicolas] 絵:佐々木裕
枇杷
「ひょっとしたらあのとき、枇杷を食べていたのだけれど、あの人の指と手も食べてしまったのかな。」
枇杷といえば、武田百合子さんの「ことばの食卓」、この一文が思い浮かびます。
桜が散り始める頃になると、それまで苺と柑橘で埋め尽くされていた果物売り場に、枇杷が並びはじめます。苺も柑橘も好きですが、品種改良によって種類が増えすぎたからか、どれがどんな味でどこの名産なのかさっぱりわからなくなり、そこに長崎産の枇杷を見つけると、少しほっとします。本当は、路地ものの旬はもう少し先なのですが、なんだかこちらを気遣って、少し早めに顔をだしてくれたのでは、というような気になります。
枇杷は、とても静かです。淡い甘さと、ほんの少しの苦み、香りと呼ぶにはあまりにも仄かな香り。枇杷は、琵琶です。へんが違うだけでつくりは一緒です。枇杷は謙虚だからきっと、琵琶に、琵琶法師に言葉と音楽を差し出したのでしょう。
枇杷を、鮪の赤身と一緒に、洋風のなめろう、タルタルにします。赤玉葱やイタリアンパセリなどの薬味、ビネガーやオイルも加えますが、枇杷の音に合わせて控えめにします。とても静かな、そっと寄り添うような料理にします。繊細な枇杷の音色を聴くために、舌が開きます。
料理人が料理をつくるときに、こころを込めて、と思いはじめたら、気を付けなければいけないと思っています。こころではなくて、自意識を込めてしまっていることがあるからです。自意識は強すぎると、化学調味料のように舌を麻痺させてしまう。そういうところから、少しでも遠くにいきたい、いつも思います。枇杷のように静かに。