Just a 16

文と絵:小林賢恵

彼女は誕生日にドクターマーチンのブーツを手に入れた。
8ホールの黒。ずっと欲しかったブーツ。

その日、彼女はチャイムが鳴ると教室を飛び出した。
クラスメイトに「バイバイ」と言いながら、早足で机と机の間をすり抜け、階段を駆け下り、靴を履き替えて校門を抜けた。
背後で誰かが何か言っていたような気がするけれど、足を止めることはなかった。
駅からは電車に乗り、自分の家のある駅を通り過ぎ、さらに5つほど先の大きなターミナル駅に着く。駅に隣接するファッションビルで、そのブーツを買った。

ブーツの代金は、春休みに駅前商店街のパン屋でアルバイトをして作った。
老夫婦が営む小さなパン屋だけれど、駅前にあることで客足はそこそこあり、結構繁盛をしていた。
母親くらいの年齢のパートの女性3人と奥さんが交替で店に立ち、春休みの2週間、彼女もそのローテーションに加わった。
朝や帰りの時間に「おはようございます〜」「なんか今日はあったかそうですね」「お疲れさまでしたぁ」「今日は忙しかったですね」なんて言葉を交わすだけで、休憩時間もひとりずつ順番だったから、そんなに話すこともなかった。
「学校と同じだ」彼女は思った。
明るく笑って、テレビの話やタレントの話、誰かが好きな運動部の先輩の話なんかをしているうちに、時間が過ぎ去る。
笑って時間をやり過ごすこと。
彼女はそれがいちばん安全だと思っている。
けれど、彼女はときどきイライラする。クラスメイトに。パートの女性たちに。そして自分に。

お店で履いてみたブーツは、想像するよりも硬くて重かった。
「足に重りをつけているみたい」と彼女は思った。
でも、その重さこそが、このブーツだということも知っている。
ブーツは四角い紙の箱に納まり、ビニールの袋に入れられ、彼女の手に渡った。
彼女はその袋を持って、別のフロアに行く。
おサイフの中には、ブーツを買うために銀行でおろしたお金がまだ入っている。
モノクロのビルの風景がプリントされた白いTシャツと、赤とグレーのチェックのスカート、そして赤のタイツを買う。
これが彼女の考えるロック。
それらの荷物を持って化粧室に行き、買ったばかりの服に着替える。
手を洗うついでに、濡れた手を短い髪の中に突っ込み、くしゃくしゃにする。
ポーチから赤い色つきのリップクリームを取りだし、鏡を見ながら塗る。
ふっくらした唇が赤く染まり、少し大人びた顔を作る。
着ていた制服とソックスは小さく折り畳んでリュックの中に。
ブーツが入っていた四角い箱には、黒いローファーが薄紙に包まれて入っている。

ブーツを履いた彼女は、少し大股で歩く。
ビルを出たところに、彼女の住む町にもある、ファストフードの看板を見つけて、そこに入る。
チーズバーガーとポテトとコーラ。
ダイエットを気にしているクラスメイトなら、悲鳴を上げそうな組み合わせ。
トレーを持って、空いている窓際の席に座る。
座った自分の足元を見る。赤いタイツと黒のブーツ。
ブーツの履き口から飛び出るようについた黄色のタグが誇らしい。
歩くと、ふくらはぎが当たって、少し痛い。
でも気にしない。
ふと視線を上げると、奥のボックス席に座る少年たちがチラチラと彼女を見ていた。彼女と同じくらいの年頃。どこかの制服の白いシャツとグレーのパンツ。
彼女はリュックからiPhoneと文庫本を取り出して、イヤフォンで耳をふさぐ。
音楽は血液と一緒に流れ、細胞を満たしていく。心臓の音をドラムが刻む。
開いたページの文字を追いながら、物語の世界に入っていく。
彼女のバリアが完成する。
音楽と文字の中に彼女はいる。少年たちはいつの間にかいなくなっていた。

窓の外は夕暮れから夜の時間に変わっていた。
彼女はトレーを片付けて、リュックのストラップを片側の肩にかけ、店を出る。
彼女はブーツの重みを感じながら、大股で歩く。
駅の改札を抜けるとき、夜の街を一瞬振り返る。
大好きな音楽があふれる場所があることを知っている。
何も考えずに踊れる場所があることを知っている。
いつか行きたいと思っている場所。
「今なら行けるかも」と、一瞬、思いがかすめるけれど、彼女の体はすっと改札を抜けて行った。
見えない星が「それでいいんだよ。早くお帰り」と、赤や青、金色のネオンが「また、いつか」と瞬いた。

ターミナルの駅は帰宅ラッシュの時間だった。
ぎゅうぎゅうに人が詰まった電車に彼女は乗る。リュックを前に掛け、下ろした左手はぎゅっと靴箱の入ったビニール袋をつかんでいる。
もう乗れないだろうと思っていたのに、ドンと強く背中を押されて、彼女はいつのまにかドアとドアの真ん中にいた。
押されたときに、彼女のブーツが誰かの足を踏んだ。
ブーツは厚底だけれど、しっかりとその感触は彼女に伝わり、反射的に顔を上げ「すみません」と謝った。
紺とシルバーのレジメンタルストライプのネクタイを絞めた、薄い水色のシャツの上に、不機嫌そうな男性の顔が乗っていた。
彼女の声に、男性は少し驚いた顔に変わり、「いえ」と小さな声が降ってきた。
彼女はなぜかとても恥ずかしくなり、電車の揺れに身をまかせながら、ずっと下を見ていた。
目に映るには、Tシャツのプリントとリュックのファスナー。
自分の手もブーツも見えない。
次の駅に着くと、ドアの外に押し出された。
彼女の住む町はまだ先だけれど、彼女は少し動揺していて、この電車を1本見送ろうと思っていた。
彼女の横を急ぎ足のひとたちが追い越していく。彼女は邪魔にならないように、人の波を外れる。
下を向くと、ブーツのころんと丸い黒いつま先が見える。
ほっとする。
そして彼女は、もうひとつ、少しとんがった黒のプレーントゥのつま先があるのに気がつく。
驚いて顔を上げると、さっき不機嫌顔から驚き顔になった男性が立っていた。
明るいグレーのパンツ。手には黒いナイロンのビジネスバッグと、パンツと同じ生地のジャケットを持っている。

「いい靴だね」
笑顔を含んだ声で男性が言った。

彼女は16才だった。
そして恋が始まった。