うずらの卵

文と絵:小林賢恵

久しぶりに自分の部屋の前に立つ。
ただいま。
鉄のドアを開けると、
空気とにおいがこもっている。

夜だけれど、窓を全開にする。
リビングも寝室も。
都会の真ん中だけれど、風は吹く。
小さくカーテンを揺らし、
止まっていた時間を追い出し、今の時間を運んでくる。

何も考えていない。
ただソファーに倒れこむように座っている。
何も考えたくないから。

それでも、いろいろな日々の断片や言葉が浮かんでくる。
最後に言った言葉は「さようなら」だったか、
「じゃあね」だったか。
彼はどんな顔をしていたっけ?

数週間前に戻っただけのこと。
単なる知り合い。
会わない時間が増えれば、
いつかは忘れてしまう。

お互いに思っていたのと違った。
それだけ。
何も誰も悪くない。

好きだった。
ほんの瞬間だったかもしれないけれど、
最高に好きだったし、最高のひとだった。
楽しい時間だった。
だけど、ダメになっちゃうものはなっちゃう。
楽しかった時間が、どんどんしぼんでいって、
ぱちんと消えてしまった。
数週間だけ夢を見たのかもしれない。

考えたくはないのに、
思いはちぎれてはつながって、
またちぎれていく。

立ち上がってキッチンに行き、
冷蔵庫のドアを開ける。
おなかが空いているわけではない。
明るく白い空間に、
いくつかの調味料と水のボトルが入っている。
何もないなぁ。
がっくりとした気持ちと、
あのとき、ちゃんと片付けてから、
彼のところに行ったんだな。
えらいじゃん、わたし。
という気持ち。

冷蔵庫横の食品棚を開けると、
いくつかのレトルトの食品と缶詰やパスタが納まっている。
でも、食べたいものはない。

棚のいちばん下の段に、
小さなうずらの卵の缶詰があった。

缶詰、使うの忘れていた。

彼の家に置いてきた、
別のうずらの缶詰を思い出す。

彼と出逢って何回目かの食事。
彼の住む町にある駅前の中華屋さんに入った。
わたしが頼んだのは五目焼きそば。
にんじん、ピーマン、白菜、豚肉、海老、筍、
それにうずらの卵も入っていて、なかなか豪華だった。
彼は何をチャーハンとラーメンのセットを食べていた。
餃子はふたりで半分コしたっけ。
ビールも飲んだね。

半分よりちょっと食べた頃、彼が言った。
「うずらの卵は嫌い? それとも最後にとっておく派?」
「あ、最後までとっておく派。うずらの卵ってスペシャルな感じがして」
「俺も俺も」

そのあと、「最後にとっておいて食べるもの」
の話をした。
ショートケーキの上のいちご。
クリームソーダのチェリー。
冷麺のスイカや梨。
崎陽軒のシウマイ弁当のあんず。
「なんか果物っぽいものばっかりだね」なんて笑った。
いっぱい笑った。

「じゃあさ、うずらの卵いっぱいの焼きそばを作ろうよ」って、
わたしが言って、その帰り道にコンビニでうずらの卵の缶詰を2缶買った。
「贅沢だね」って、彼は笑っていた。
そして、手をつないで彼の家に帰った。
一緒にいた短い時間の中で、
うずらの卵いっぱいの焼きそばは、作らなかった。
何を作ったっけ。
カレー、野菜炒め、おでん、豚しゃぶ、ハンバーグも作ったし、
唐揚げもしたよなぁ。
わたし、がんばった。
彼も美味しいって食べてくれた。

だけど、あのうずらの缶詰を使うことはなかった。
だんだん会話が少なくなって、何か言えばケンカっぽくなって、
そして、黙ってしまうようになった。
笑い合うことがなくなって、「終わりにしよう」って言った。

うずらの卵いっぱいの焼きそば。
とっておきにしていて、ふたりとも食べ損ねてしまったね。

どこに置いたっけ。
彼の家のキッチンは狭くて、収納も少ないから、
置き場所に困って、シンクの下の引き出しの中に入れたんだ。

焼きそば、作ればよかった。
うずらの卵いっぱいの。

作っていたら、美味しくできたら、何か違ったかな。

これって未練なのかな。
よくわからない。

いつか、彼はあの缶詰に気がつくかな。
そのとき、わたしのことを思い出すのかな。

彼が思い出す頃には、
わたしは忘れていたらいいな。
彼のことをではなく、彼に会ったことでもなく、
かなしみの気持ちだけ。