この気持ちに名前をつけるなら

文と絵:小林賢恵

高校2年の春。
新学期の最初の日。
担任になった教師は、
出席簿順に男女交互に
前から座っていくように指示した。

俺の前には、初めて見る女子が座った。

彼女はスクールカーストなんて言葉で言えば、
ピラミッドの上から三番目あたり。
派手なスターでもなく、
二番目のにぎやかな連中でもなく、
かといってすげぇ地味でもない。
背の高さも、横幅もフツーで、
顔もフツーっていえば、フツーなんだけれど、
目立たない感じだった。

授業中は背筋を伸ばし、
真っ直ぐに前を向いていた。
俺は大抵、頬杖をついたり、
机にべったり突っ伏すように座っていて、
視線の中には、いつも彼女のまっすぐな背中があった。
彼女が後ろを向いて俺に話しかけるなんてことは、
ほとんどなかった。
だから、いつも彼女の背中を見ていた。

姿勢がいいのは剣道部だからか。
剣道は小さい頃からやっていると、
誰かが話しているのを聞いた。

教室の窓から見える木々の緑が濃くなり、
衣替えの季節を過ぎた頃。
彼女は紺のブレザーとセーターを脱いで、
白いブラウスだけになった。
薄く、青がかったような真っ白いブラウスの、
広くも狭くもない背中。
なだらかな肩の線。
肩下までのさらっとした髪が、
下を向くと首のところでふたつに分かれ、
白い肌が見える。

ブラウスに包まれた背筋の伸びた背中。
首や腕を動かすと、
ブラウスにスッとシワがよる。
その線の始まりと終わりを俺は見ている。

剣道部の朝練や体育の授業のあとは、
その背中から、グレープフルーツやレモンみたいな
柑橘系のにおいがした。

制汗剤のスプレーのにおいだと、
ガールフレンドのつきあいで入ったドラッグストアで知った。
ポケットに入っていた小銭で、それを買う。
ガールフレンドには、
「なんか、女子っぽくない?」と聞かれたけれど、
「いいじゃん、さわやかで」とか言ってテキトーに返した。

家に帰ったあと、部屋で空中にスプレーしてみた。
シュッという音ともに、あの香りが広がる。
汗で後れ毛がはりついた、彼女のうなじを思う。

彼女を好きなわけじゃない。
つきあいたいわけでもない。
だいたいほとんど話したこともない。
俺は彼女のことを知らない。

ただ、あの背中をいつまでも見ていたいと正直思う。

キモい。
我ながらキモい。
ガールフレンドはもちろん、
バカ話をする友人にも言えやしない。

1学期の最後の日。
終業式の始まる前の時間。
教室のあちこちでは、
男子も女子もおしゃべりの
輪が広がっているけれど、
俺は、頬杖をつきながら、
いつものように彼女の背中を見ている。

その白いブラウスの背中に、
髪の毛が1本ついていた。
まっすぐでさらっとした彼女の髪。

つい手が伸びた。
指先でその髪の毛をつまもうとしたとき、
くるりと彼女が振り向いた。

「いつもキモいんだよ! なんなの!」と怒鳴った。

彼女の怒りを含んだ声に、
スクールカースト二番目のうるさい女子連中が、
目をきらきらさせながら、
「え、なになに、なんかされたの?」とか言って、
彼女の机のところに群がってきた。

そのとき
「これから終業式が始まります。
全校生徒は体育館に終業してください」と、
校内放送が流れた。

俺は席を蹴るように立って、
好奇心のお化けどもを押しのけて教室を出た。

いつもつるんでいる何人かが追っかけてきて、女子と同じように
「なに、なにかしたん?」と言ってきたけれど、
「しらねーよ」と無視した。
そのあとも、うまく笑えたと思う。

式が終わり、教室の席に戻ってきたとき、
いつもはスッと伸びている彼女の背中は、
丸まっていて、顔は下を向いていた。
背中は完全に俺を拒否している。

終わった。

そして学校も夏休みに突入した。

部活の練習、予備校、ガールフレンドとのデート、
仲間たちと河原でバーベキュー、花火大会、野外コンサート…。
バカみたいに笑い、叫びながら、日焼けした高2の夏が過ぎていく。

そんな日々のなかでも、
ひとりで過ごす夜は、彼女の背中を思い出す。

腕を伸ばしたときに、
白いブラウスの背中に斜めに走るシワのライン。
柑橘のにおい。
まっすぐで、動くたびにさらさらと揺れていた髪。
髪の隙間から見えた白いうなじ。

でも、最後は
彼女の怒りに満ちた目と
「キモい」という言葉でシャットダウンされる。

ただ見ていただけなのに、気づかれていた。
でも、見ているだけも伝わるものなんだな。
ダメなほうにだったけれど。

俺はう~っと唸って枕に顔を埋める。

恋なんかじゃない。

スケベな気持ちなんかでもない。
たぶん。
フェチっていうヤツでもない。
たぶん。
他の女の背中にはなんとも思わない。
ガールフレンドやアイドルだって、
裸や水着の背中のほうがいい。

でも、なんでかはわからないけれど、
あの白いブラウスの背中に、
彼女の後ろ姿に惹かれた。

理由もなく、説明のつかない
この気持ちが恋だというのなら、
恋なのかもしれないけれど。

新学期には席替えがあるだろう。
話をすることもない。
秋になれば、白いブラウスはセーターや
ブレザーで隠れてしまう。

忘れよう。忘れられる。
きっと。