「東京タワーの歌を作って」と彼女は言った

文と音楽:田辺マモル

  自分の作った歌について自ら解説をするのはたぶん野暮なことなのだろう。多くのアーティストが、インタビューでそう言っている。説明できないから歌にしてるんだとか、思いはすべて作品にこめたとか。作品について語ることはきっと、言い訳をするようなものなのだろう。その通りかもしれない。けれどライブのMCなんかで、この歌はこれこれこういう気持ちで作ったとか、誰それへの想いを歌にしたとかを語られたあとにその歌を聴きグッと来てしまったり、実はあの歌の作られた背景にはこうこうこういうことがあったんだよと他人から講釈されたあとにその歌を聴き、以前とは違う感動を覚えてしまうこともよくあることで、歌について自分から語ることが必ずしも悪いことであるとも思えない。

歌というのは今さら僕が言うまでもなく言葉とメロディーからできていて、お互いが補完しあってもいるんだけれども、お互いに束縛しあっているという側面もある。助け合うかわりに自由を奪い合う、まるで夫婦のようなものである。なんてベタな例えだろう。こんな結婚式のスピーチのようなことを言う人間にだけはなりたくなかった。
  けどまあ死んだ目でスピーチを続けると、仮に夫が歌詞で妻がメロディーだとすると(いや、逆でも良いんだけど、なんとなくこの方がしっくりするので)、夫の暴走を妻が抑えることもあるし、その逆もある。結婚するまではフリージャズのインプロヴィゼーションのようだった自由奔放な女性が、言葉数の少ない真面目な男性と結ばれることでシンプルなメロディーを美しく奏でる妻になったりもする。夫婦って素晴らしい。くそスピーチが。しかし映画のサントラのように、取ってつけたような歌詞が後からつけられてガッカリさせられることもある。無理に結婚しなくても良かったのにと。
  その点ですごかったなあと思うのは、さだまさし様である。1998年の紅白歌合戦に「北の国から」で出場することが決まったとき(以前は歌を巷に流行らせたことでもって出場権を与えられていたように思う)、さてどんな歌詞がつけられるのだろうかと話題になったことがあった。あの「雨やどり」や「親父の一番長い日」や「関白宣言」など、「歌詞が夫で曲が妻」のたとえでいえば明らかに亭主関白な(関白宣言だけに、くそスピーチ)、歌詞偏重型のソングライターの方である、きっとまたドラマのある歌詞を作って来るに違いないとみんなが思っていた。歌詞の予想も一部ファンの間で流行り、僕は「きた〜のくにから〜♪」と歌い始めるに違いないと考えていた。浅はかだった。紅白の幕が上がるとさだ様は、アアア〜とかンンン〜とかラララ〜とか、意味のある言葉は一言も発さずにお歌い切りになられた。おみごと。逆夫唱婦随、みごとな婦唱夫随であった。
  いやだから、結婚式は嫌いだって前に書いてたじゃん。スピーチで話が脱線してしまった。
  メロディーに一定のルールというか枠がある以上、歌える言葉数にはどんなに崩したとしてもある程度の制限はかかる。複雑さよりも僕はシンプルさを好む。この「東京タワーの歌を〜」に関しては、これが例えばエッセイであれば最低でも原稿用紙3枚で伝えるべきところを、言葉を削って原稿用紙1枚にまとめるような作業をして作った。場面転換も多いし、時代もまたがるし、登場人物も多いので、聴くだけではわかりづらいんだろうなあと思うので、この場を借りてその補足というか、整理をさせていただこうと思う。歌がわかりづらいものになってしまったのはひとえに僕の努力と才能不足によるものなので、これはやはり言い訳である。歌は頭で理解するものではなく、ハートからハートへと伝えるものだ。もしかしたらせっかく何らかが伝わっていたのに、このような補足をすることで逆にそれを台無しにしてしまうかもしれない。興ざめさせてしまうかもしれない。ごめんなさい。なかったことにしてください。

  黒字は歌詞で、赤字が補足になります。

「東京タワーの歌を作って」と 最近付き合い始めた関西出身の彼女は言った

47歳バツイチの僕は
「今さら東京タワーなんて」と言いながら

自分の思い出の中にはいつも
スカイツリーではなく ディズニーランドでもなく
振り返ればそこに 東京タワーがあったことに気づき 回想する

あれは僕が6つの頃 まだ生きていた父親(後に癌で早逝)運転する
車に乗って 家族5人でやって来た
展望台に上って 100円玉を親にねだって
望遠鏡で荒川区にある自分ちをさがした 1970年代前半の東京タワー

高校生になって 初めて付き合った彼女と
制服姿のまま田町から歩いて来た

東京タワーの近くにある
プリンスホテルの壁はまだピカピカに輝いていて
いつか泊まろうと約束した 1980年代半ばの東京タワー

(バブル期の大学生や社会人カップルは、クリスマスには高級ホテルで過ごすのが流行っていた。人気ホテルはなかなかとれず、一年前から予約の電話をした。予約をとるのは男の役目だった。)


ああ
東京タワー ああ東京タワー

3度目は1990年頃 24歳のとき のちに妻となる人と

東京タワーからの帰り道
増上寺の水子地蔵のわき道を歩きながら

タワー内にあった
『蝋人形館』のそっくりな人形よりも このお地蔵さんたちのほうが
「生きているみたいに感じる」と彼女は目をそらした
それから何年か経ってまた二人で
手を合わせにここに供養しに来ることなど そのときはまるで思いもしないで

33歳のとき 恋人との別れ話 いわゆる不倫
最後の想い出に東京タワーに行こうって
『トリックシアター』のふしぎな鏡にうつった二人の
ゆがんだ姿を見て泣いた ミレニアムの頃の東京タワー

5歳になった息子と ポケモンラリーのスタンプを集め
一日がかりで たどり着けば夕暮れ
僕が子どもの頃から そこにあったような
くたびれたパンダの背に子を乗せた 2000年代半ばの東京タワー

Panda

いやはや東京タワー やれやれ東京タワー

僕は離婚をし 仕事をやめて いつの間にか年老いた
母親の手を引いて 展望台にのぼった

認知症の入り始めた
母は僕のことを「お父さん」と呼んだ

家族5人で来たときのことを思い出し 今と重なってしまったのだろう

東京で生まれた人は 東京タワーには
のぼらないなんて誰が言ったんだろう
かすれゆく母の記憶の中にもそびえ立っていた東京タワー

「東京タワーの歌を作って」と関西出身の彼女は言った
「今さら東京タワーなんて」と僕は言いながら
スカイツリーではなく ディズニーランドもなく

過去を
振り返ればそこにいつも 東京タワーあったことに気づく