夏のはじまり

文と絵:小林賢恵

和菓子屋の角を曲がる。

まっすぐの道が続く。
この先には海がある。
いまはまだ見えないし、
波の音も聞こえないけれど、
道の先がなんとなく明るくて、
「海がある」とわかる。

三方を山に囲まれ、
海に開けた小さな町に住んでいる。

ときどき、海に行く。
明るく、広い世界を見たくなる。

海に出る道の途中には、
小さな中華屋がある。

磨りガラスの窓が入った、
サッシの引き戸は少しほこりで汚れている。
白の染め抜きの文字が入った、
赤いのれんだけが真新しい。

夕方のまだ早い時間だけれど「営業中」の札がかかっている。
少し考えて、引き戸を開ける。
グレーのコンクリートの床。赤いカウンターテーブル。
ドーナツみたいに中央に穴があいた、グリーンビニールシートの丸椅子。

日焼けした白衣のお兄さんが「いらっしゃい」という。

カウンターの向こうには、やはり白衣を着た年輩の男性。
お兄さんとこのおじさんは親子かな。
手元は壁で仕切られていて見えないが、
何かを切っているらしい包丁の音がする。

開店時間すぐだからか、まだ客はいない。
椅子を引いて、入り口に近いカウンターの席に座ると、
お兄さんが水の入ったガラスのコップを置いた。
立てかけてあるメニューを見る。

「ビールと肉野菜炒めください」。
「肉野菜ひとつ」
お兄さんが厨房に向かって声を張る。

瓶ビールとガラスのコップが置かれる。
お通しなのか、白い小皿に盛ったザーサイも出てくる。

ビールをコップに注ぐ。
美しい金色と白い泡。
よく冷えている。

餃子も頼めばよかったかなぁ、なんてぼんやり思う。
カウンターの向こうでは、
ジャっという水蒸気が上がる音がしたあと、
お玉が鉄鍋に当たる、
カシャカシャをいう炒める音が聞こえてくる。
中華料理はリズム。リズムがおいしさを作る。

「おまちどうさま」。

部屋の角に取り付けられたテレビを、
立ったまま見ていたお兄さんが、
まだ湯気の立つ皿を目の前に置いてくれた。

肉野菜炒めをつまみにビールを飲む。

カウンターにひじをつき、
ガラスのコップのふちを軽く持って、
ぼんやりテレビを見ながらビールを飲む。

お兄さんもテレビを見ている。
カウンターの向こうのおじさんも見ている。

女性タレントの熱愛のニュース。
頭にその内容が入ってくるわけではないけれど、
ただ見ている。

コップの中のビールが少なくなると、
また、ついで飲む。
肉野菜炒めを食べる。
おいしい。しあわせ。

裸足の足先にビーチサンダルの鼻緒をひっかけ、
足をブラブラさせている。
ひじもついているし、
行儀は悪いが、そんな気分のときもある。

軽やかに酔いが広がってくる。

ビールのコップを片手に、もう片手で頬杖をつく。
少し日焼けをしたのか、肌が火照っている。
いや、酔っているからか。

カウンター越しに見える、厨房の小窓から
パラパラという音がする。
雨だ。

いきなりの夕立。

お兄さんもおじさんも窓の外を見る。

入り口の磨りガラスの向こうは、少し暗くなり、
雨の音は激しくなり、水と土のにおいがする。
海のにおいも混じっている。
夏のはじまり。

雨の音は激しさを増し、
しばらくやみそうもない。

「すみませ〜ん、チャーハンください」。
「チャーハンひとつ!」

お兄さんが厨房に声をかけると
おじさんがお玉で中華鍋に油をひく音が聞こえた。