どうせ役に立たないのならいっそのこと

20年以上続けてきたブログが今月末でサービス終了となる。その代替えにこちらを始めたのだけれどどう考えても立ち位置が違うように思う。あちらを移行することは止めた。開業前から書き続けてきた20年以上の言葉と文章がこの世から無くなってしまう。なんてロマンチックなのだろう。

告知は基本Instagramで。TwitterとFacebookは稼働していない。ただあるだけ。見てもいない。とはいえこのブログをアップしたら飛ばします。あいかわらずlineもやってません。徐々にすべてのsnsから撤退する感じ。でもこの場所だけは残したいなと。ほんとはメールマガジン始めようと思っていたのですが、定期的にとなると。。。。

文章を書く人が増えているらしい。自己表現なのかしら。だけど本は売れず本屋は無くなっていく。だからって嘆いているわけではない。だってそれらは今に始まったことではないのだから。ずっとそれは目の前にあったのに見えないふりをしていたツケだ。仕方がない、そう、仕方がない。

もし必要なものならなんとかなるだろう。安吾じゃないけれど、一度底まで落ちて自分の形を発見する、そしてそれを救うために何が出来るかだ。見たくないものを見ない限りはどうにもならない。どうにもならないまま何とかなってきた今までの方が異常だったのかも知れないな。

コーヒーもこの生豆の高騰が続くと終わりに近づくような気がする。嗜好品と言いながらやはり日常品。金額に慄きながら気を遣い淹れるコーヒーなんて美味しいわけがない。世界に合わせて物価を上げることが正しいのだろうか。グローバリズムという死に体をいつものように見ないふりをこれからも続けるのだろうか。