奈落なら手を叩きましょう声のする方へ

娘はプサン帰り。息子は名古屋でライブを見て京都へ。妻は万博へ。私は家と店にいる。家族四人が自分の居場所を見つけられていることが嬉しい。だから四人が揃うと楽しい。同じではない。思想も嗜好も。だからいいのだ。それがわかるまで時間がかかった。みんな一緒がいいとずっと思っていた。

基本私はいつも間違う。簡単な判断も間違う。だからって思う反対をわざと選んだとしてもそっちが間違いとなる。ならばどうするか?そう、間違いを最小化し、そのケアを迅速に出来る仕組みを作るようにするしかない。だからそうした、長い時間をかけて。理解しようとするのではなく、現象をそのまま受け止められる訓練。

落ちているときは不安だ。どこまで落ちるかわからないから。昇るときの反対だな感情は。でも落ち切ったら最早上を向くしかない。ネガティブも落ち切ればポジティブになるしかない。理屈じゃない、ただ現象をそのまま受け止めるだけの話。って、それしか方法は無いのだよ、奈落じゃ。

ただ昇る、そう設問が限定されると人は考える。思考の最中に不安になることはない、たぶん。不安は考えていないときにやってくる怪物だ。いろんな方法を考える、試す、間違う。それの繰り返し。って、何が?人生がだ。間違い続けている間に何かが変わる。そしてその変わったことをそのまま受け止める。理屈はいらない。

家族だからと言って同じほうがおかしいのだ。誰かが我慢をするか強権を発動するかになる。奇跡的に同じならそれでいい。でも、それを理解しようとするときっと間違ってしまう。頭でより心に来るものを大切にしようではないか。確か漱石もそんなことを言っていたような気がする。たぶんね。