さよなら部族主義者

ひさしぶりに小説を書こうという気が沸いてきた。なんとなく自分に向いていないんじゃないかしらと思っていたのだけれど逆に向いているのではという謎の確信が現れてた。たぶん勘違いなんだけど。でもね勘違いのままでもこのやる気のようなものがあるうちに書き始めればいいんじゃないのかなと。

書き続けること、書き切ることはそんなに苦じゃない。とにかく書き始めることが一番苦手。そのためにブログを始めた。とにかく毎日書く。出来れば5分で。なんのアイデアもなくパソコンの前に座る。20年以上続いているからそれが日常となっている。焙煎も同じ。朝起きたら店に行き焙煎機のスイッチを入れる。

小説も同じなのかもしれない。書きたいことがあるわけでもないし、物語を書くつもりもない。そんなもの無くても小説は書けるし、そういう小説が存在してもいい、いや存在するべきだと思う。だってそういうものを読みたいのだよわたくしは。そうそう、読みたい小説が無いから書こう、それが最初の動機だった。

と全くタイトルと関係のないことをゾロゾロ書き連ねていますが、小説で書こうとしているひとつのキーワードです。書きたいことではなく本を読んだりボーっとしたりしているときになんとなく生まれた言葉。それについていろいろ考えるために小説を書く。そう書くとは考えること、私にとっては。

どこに辿り着くかわからないから書きたいのだ。だから小説家には向いていない。設計図が書けないし、そもそも物語ろうという気がまったくない。現代において(特に日本は)物語のことを小説だと思っている人が多すぎる。展開などどうでもいいのだ。とコーヒー屋の癖にうるさいな。

本業のことは語らない、だって恥ずかしいから。そしてやればやるほどわからないことばかりだし。コーヒーのことについての本は書けないな。今まで出したコーヒーの本もなんとなくズラしてるでしょ。20年以上やっていて今更だけど、私はコーヒーの人でないのだ。そもそも動機も不純だったしなんとなく横入りだし。

生まれてこのかたどこかに所属したという実感がない。学校に行っていたときも、会社員だったときも。そういう不安定さがとにかく嫌だったのだけれど56年そうだったものが今更どうにかなるわけではない。得に今は部族主義者が世界を蹂躙している社会においては無価値な人間である自覚はある。

だから逆らってみる。微力、いや無力かもしれないが小さな声をあげる。そのための小説。って、なんだか大きなこと言ってますが、たぶんめっちゃ小さな小説を書くことでしょう。分はわきまえてますから。来年に読んでもらえるよう明日からコツコツ書いていきます。って、今日から書けよって声が聞こえますが、そこはそれ。お楽しみに。