ふわっとしたものを掴む技術

コーヒーを作る、文章を書く。どちらも誰かに教わったわけじゃない。今まで経験した香味や文体をなんとなくなぞりながらやってきた。誰かの真似をしようとしたところで完全にそうはならない。どうやったって自分が入ってきてしまう。いいことか悪いことがわからないけれどそういうものだ。

細部を分解して構造を理解すればかなり近くなるはずだけれど、そういうことを試したことはない。なんだか大切なものが零れ落ちてしまうような気がするからだ。その大切なものが何かわかってないから日々試行錯誤する。ゴールがないからずっと途中。そしてそういうものが私には心地良い。

理屈や理論があると人を説得しやすい。でもね私は誰かを説得したいわけではない。コーヒーは初めて飲んだときのことを覚えていないし、本を読み始めたきっかけも定かではない。そしてどちらも自分にとって無くては困るものでもない。きっと無いならないでまた別のもので暇を埋めるはず。

大きな主語で話したくない。できるだけ小さな主語で。そして主語を抜かして話す人からは距離を置く。ふわっとしたものと曖昧に濁したものは似て非なるものなのだ。理屈や理由は頭で考えるけれど、漱石が言っていたように大切なものは心臓に来るものだ。そういうことが歳をとってわかるようになった。

小難しい本を読んで理屈を語っていた私がこんな風になるなんて想像もしていなかった。家族のおかげだし、なによりコーヒーを生業にしたからこそだ。理屈では美味しいコーヒーになっているはず、でも実際は。。。。それの繰り返し。でもね、そのおかげでふわっとしたものを掴む技術を手に出来た。ラッキー。